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続日本100名城スタンプラリー
179.河後森城
古来四国は讃岐・阿波・伊予・土佐の四つの国から構成されていることにその由来があり、それぞれ現在の香川県・徳島県・愛媛県・高知県に該当する。この四つの国のうち伊予と土佐の国境にあったのが今回のテーマ河後森城である。
伊予と土佐の間には山々が広がっているため、両者を行き来するルートは多くはないが、その中でも貴重なルートが四万十川の支流広見川沿いであった。河後森城はその広見川とさらにその支流の堀切川、鰯川とう3つの川に囲まれた丘陵地帯に築かれた中世城郭である。
築城初期の歴史ははっきりしていないが、伝承によれば12世紀ごろに公家の一条氏の流れを組む渡辺氏(川原淵殿と呼ばれていた)によって造られたらしい。鎌倉時代から戦国時代まで渡辺氏の支配が続くが、天正年間に土佐の長曾我部氏が四国統一に乗り出すとその圧迫を受けるようになる。そして天正八年頃に長曾我部氏の謀略によって家臣の芝政景が寝返り、城主の渡辺教忠を放逐した。しかしその後天正十一年に豊臣秀吉の四国攻めが行われた結果、芝政景は追放され、後には秀吉の家臣の戸田勝隆が入る。ただ文禄年間に河後森城を含む南伊予広域が藤堂高虎が支配地になると、国境の山中にある河後森城は拠点として不便であり、高虎は海に近い板島城(今の宇和島城)を拠点とした。この際に河後森城の天守が板島城に移転されたと伝わっている。その後慶長十九年(1614年)に伊達秀宗が南伊予に入り宇和島藩が立藩されると、家老の桑折景頼が河後森城を居城としたものの、元和元年の一国一城令によって廃城となった。
風呂ヶ谷から登城
井戸
復元された門
西十番曲輪
前述のように河後森城は3つの川に囲まれた丘陵地帯にある。標高171メートルの最高所に本郭が置かれ。16世紀末から17世紀の城の最終段階には天守もあったとされている。本郭からは尾根沿いに曲輪が並べられ、南西方向への西曲輪群(9曲輪)と南東方向への東曲輪群(7曲輪)があり全体として馬蹄形をした城郭である。馬蹄の内部に当たる風呂ヶ谷は井戸(水源)を持つ低地であり、その東側(東曲輪の南)には新城というやや独立した曲輪群も存在していた。
現在河後森城の城跡はよく整備されており、曲輪の形や堀切などもよくわかる。また、門など一部の施設も復元されている
西曲輪群の並び
下から見上げる
西第五曲輪
堀切
本郭
本郭から市街地を望む
石垣の跡
東曲輪群
古城
(登城日 2024年4月10日)
河後森城へのアクセス: JR予土線松丸駅から徒歩で約10分の永昌寺登城口、あるいは同じく駅から徒歩15分の風呂ヶ谷登城口から入ります。
スタンプの設置場所 城内の西第十曲輪馬屋にあります
登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 比較的整備はされていますが、山城なのでそれなりに体力が必要です。
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